地下足袋山中考 NO18

<森吉山スキー場の変遷@ スキー場開発の発端>

森吉山森吉・阿仁両スキー場は、1987H62)年12月に西武グループの国土計画()が大型スキー場としてオープンさせた。その後、当初計画にあった山頂部連瀬スキー場は自然保護優先を求める県民世論によって断念。ピーク時22万人の利用客を数えたが、過疎化に伴うスキー人口の減少、レジャーの多様化、バブル崩壊による景気の低迷とリゾート法の見直し、西武グループの再編と撤退による両スキー場の売却と森吉山スキー場の廃止、そして阿仁スキー場の譲渡問題が大詰めを迎えている。スキー場開発問題に深く関わってきた一人として私見を交え、これまでの変遷を辿りながら、スキー場とゴンドラ観光の将来展望を探ってみたい森吉山スキー場の発端は、旧阿仁町が過疎と高齢化、豪雪、出稼ぎ、人口流出の起死回生策として、地元有志が描いたスキー場開発構想を具体化したものだ。昭和40年代前半までは、鉱山と林業の町として人口もピーク時で1万人を超えていたが、鉱山の縮小(S53閉鎖)とともに人口は半減に近づいていたスキー場構想は当時の沢井作蔵町長に一大決心をさせた。1974(S49)年に阿仁町役場に商工観光課を設け「阿仁スキー場調査委員会」を設置当然、大型のスキー場が前提、町独自では無理、県を巻き込むことが第一条件であり、それにはそれなりの調査資料を必要とした。町長が調査委員会のリーダーとなり各方面から資料を取り寄せ、現地調査に三年の時間を費やす当初、県の考えは町の思惑とは正反対で、スキー場を建設してどうなると一蹴されたという。しかし、町の存続をかける町長は、再三、再四、県に折衝し、スキー場以外生き残る道はないと訴えていく。当時、秋田県は全国有数の人口減少県で阿仁町はさらに全県一位であり、その汚名返上が課題だった。町の存続をかけた沢井町長の願いと、秋田県の人口減少に歯止めをかけなければならないという思惑が一致し県は重い腰を上げたその後、県サイドで大手デベロッパーの国土計画(本社東京都 堤義明社長)に進出を打診。1982(S57)2月、幹部が調査に乗り出したことで、いよいよ東洋一の大型スキー場構想は現実のものとして動き出す。一方の森吉町は阿仁町の動きを静観していたが、国土計画()が乗り出してきてから対策室を設置、その後は県の指導に合わせ対処した。人口流出問題は森吉町にとっても大きな問題であったのだ1982(S57)7月、秋田県知事(佐々木喜久治)が開発を正式に公表。国内の超一流デベロッパーの国土計画とあって、降ってわいたような大型スキー場計画に、阿仁・森吉両町ともに実現の信頼性も高まり「早期開発」を合言葉に大きな一歩を踏み出す1983(S58)215日の朝日新聞秋田版には、阿仁町が中心になり秋田県が全面的にテコ入れし誘致を進めてきた森吉山スキー場開発に「大手デベロッパーの国土計画()が正式表明と報道」。県を通して国土計画()が示したプランは、阿仁町の構想をさらに発展させたパノラマ型のスキー場で、県立自然公園の最も重要な森吉山の頂上を、阿仁側と森吉側からそれぞれゴンドラとリフトで結ぶという壮大なプランであった。どんなに誘致しても中小企業の工場しか来なかった過疎の町に、一流の国土計画()が大構想を持ってやってくる。沢井町長時代から悲願であったスキー場開発計画がスタートすることになり、町は沸き立ち、町民の夢は膨らんだ1983(S58)318日、計画を注視していた県内の自然保護団体4者から要望書が提出された。この計画は阿仁スキー場と森吉スキー場を開設すると当然山頂部で結ぶことになるため、スキー場建設は標高1454mの山の1200m以下にするよう県、秋田営林局、森吉・阿仁両町、事業主体の国土に要望書を提出。要望内容は1200m以上の開発禁止とブナ林を伐採しないことの2点。52には県に公開質問状を提出し、環境アセスメントの実施と山頂部開発の真意を正した。秋田営林局も山頂部はすぐれた景観を有し、水源涵養保安林であり風景林にも指定されているので、スキー場開発は疑問との声を上げた。また、県自然環境保全審議会でも開発に慎重論が続出した。▲しかし、両町の過疎化の歯止めと地域活性化を命題とするスキー場計画は、県立自然公園特別地域を舞台に、当時の国土計画()が事業主体となり、秋田県の全面的な支援を後ろだてに進められていった。

<メディア情報参考> (2010.11.3)<次号につづく>